2006年09月07日

ウチナァの文化・ゲージュツということについて・・・。

はじめまして、OMPF2006実行委員とは名ばかりになりつつある、
CodeName=KAMAちゃんです。(よくオカマ?とかクマ?とか言われるけどK・A・M・A(かま)ちゃんデス。苗字が鎌倉だから。KABAちゃんとも違いますよ。)

はてさて、まず本題に入る前に内輪ネタですが、上記の「OMPF2006実行委員とは名ばかりになりつつある」について、この場を借りて、実行委員のメンバァに謝らせて下さい。

仕事を言い訳にはしたくないけどホントに忙しいぃノ!マジで!!
現在、肉体的にも、精神的にも追い詰められてます・・・。

だから、ミーチングに参加出来なくて、&ロクに連絡も出来なくてごめんねミンナ。
許してチョンマゲ!ダミ?おにがい!

すいません;取り乱してしまいました;;

さてさて、本題の「ウチナァの文化・ゲージュツということについて」ですが、自分はモノを創る側の人間ではなく、どちらかというと(どちらかと言わないまでも)観る側の人間です。だから、どうしても何かについて論じるときは、批評家になるのよね。でも、自分は何もやってないくせにモノゴトをあーだこーだ批判・批判する人って大っ嫌いっつう矛盾した考えも持ってます。ま、人間は矛盾を抱えていることが健全だとも言いますが・・・。

あ、なんか書いてて意味分からんくなってきた(′А`;

え〜っと、書きたかったのはデスね。
ワタクシ、最近、本を読んでます(実際には、忙しくなる前まで読んでいて、現在は読みかけのまま埃をかぶりつつある。)。本の名前は「沖縄文化論」、作者「岡本太郎」、1972年に書かれたそうです(自分はまだ産まれてませんねぇ)。読みかけの為、このあとどんなオチに着地するのか、はたまたそのまま舞い上がるのかは分かりませんが、この本に興味深い趣旨の内容がありまして、今日はそれを伝えたく筆をとった(キーボードを叩いた)っつう訳です。

その伝えたい内容を抜粋すると大変なボリュームになる為、自分なりにまとめて伝えたいと思います。

太郎氏は、当事、沖縄に根付く文化を見に来たそうです。彼は「沖縄にもっと具体的な文化遺産、芸術品というようなものを、漠然と期待していた」のですが、琉球王朝に関わる様々な建造物・遺跡、織物・焼き物などなど、一通り見て思ったことは、「印象が希薄だ」、「つきあげてくるものが何もない」。

L・O・V・E沖縄の人ならここまで聞いて「はァ分かってないな・・・。」と両掌を上に向けて肩の高さに上げてみたり、「なんだとっ!」とコブシを挙げて憤ってみたりするのでしょうが、太郎氏はこうも言っています。

・私を最も感動させたものは、意外にも、まったく何の実体も持っていない———といって差支えない、御嶽(うたき)だった。
・とかく文化というと高度な成果を期待してしまいがちである。そしてそれらの凄みのある美観というものは富と力にものをいわせ、美と権威を誇示したものである。それは文字通り虚飾である。しかし、そこには生活から切り離された凄みがある。非人間的ともいえる誇らかな相貌に、逆に人間の深い、激しい本質が現出する。
・しかし、沖縄にはそれとは真逆のぎりぎりの手段で生きる生活者の凄み、美しさがある。生活の素肌の感動がある。

と。

そして、その後沖縄の唄や踊りを上げ、日本舞踊などと比較しつつ、「沖縄の唄や踊りは生きている。生命が息づいている。」といったことを仰っているのです。

これらの言葉はもう30年以上も前の言葉ですから、今の沖縄にはその当時の生きている、ナマな文化・ゲージュツはもう残っていないのかもしれません。しかし、文化というものゲージュツとうものは、残す為にあるんじゃなくて、残るからこそ「生きている」と感じるのだと思います。

今、自分が関わる沖縄映像祭は、沖縄から発信する新しい生きた文化・ゲージュツとして、沖縄から産まれる映像というものを日本に世界に新しく認識させ、根付かせるための試みだと思っています。だから、もっとたくさんの人に認識されると良いなと思っていますし、認識される『価値』のあるものだとも思っています。

なんだか、結局自分が住む沖縄を、そして自分たちの映像祭を熱く語りつつ、何気にたたえる様な文章になってしまいました。

でもそれでいーんです!

『沖縄映像祭』とかけて

『沖縄を賛美するイベント』と解く

その心は

『沖縄エイゾー(良いぞー)祭』

お後が宜しいようで(宜しくないかも知れませんが・・・;)



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